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 長曽祢の修行が終わって、思ったことをまとまりなくつらつらと。
 あれこれ不安もあったけど、届いた手紙を読んでみて思ったのは「長曽祢さんは長曽祢さんだったな…」ということでした。
 浦島もそうだったように思うので、虎徹二人して自分で「こうだ」と主張しながらも「これでいいのかな」という不安もどこかにあったものを、「これでいいんだ」と確認して帰ってくる修行になっているような印象が(なので、蜂須賀もそういう方向なのかな…と)。

 そしてそれで「真作に劣るものではない」ということを確信してきたのなら、逆にこれまでは「贋作=出来が悪い」というイメージを多少は気にしていたのかな、「贋作には務まらない」をはじめとする蜂須賀の言葉が実は効いていたのかな、引け目を感じていたりもしたのかな…とか思ったり(だからこれからは、自分から「贋作だから~」って言い方はしなくなるのかも?)。
 それでも、ここまで言っておきながら、あくまで「真作に勝る」ではなく「真作に劣るものではない」という言い回しなんだなぁと。

 あと「おれを虎徹だと位置づけている」という言い方からしても、彼は虎徹でも清麿でもなくて、ただ「働き」だけが拠って立つもので、その刀工や刀派の名は別に背負うものではないんだな、と。
 もしも虎徹ではない別の刀工の贋作にされていたら、ただその名を名乗るだけだったんだろうと。
 この、「虎徹」の名による保証を拠りどころにする蜂須賀とはどこまでも相容れない感ね…。
 でもそれは、例えば近藤の「この刀は虎徹の真作である」と評価する視点があくまで切れ味や頑丈さでしかないように、評価の切り口の違いであって、結局どっちにも一利あるところがいいというか。どっちも間違ってるわけじゃないんだよねと。

 そしてだからこそ、「虎徹の贋作」として顕現して、真作の虎徹と肩を並べて戦うことになったというのは、「刀剣乱舞」だからこその縁なんだろうなと思うんですよね。
 「虎徹」の名なんてどうでもよかったのだとしても、彼曰く「位置づけ」られたことで何かしら縁が結ばれたのなら、そこから物語ははじめられるんじゃないかと。
 これからいかに働きを見せるか…を重要視するなら、ずっと飾られてきた刀だって、現存していない刀だって、再刃された刀だって働きを見せられるはずで、長曽祢のそうした言動が誰かにとって救いになることもあるんじゃないかと。

 …でも、長曽祢にとって蜂須賀は必要なくなるのかな…という不安も確かに覚えて、それは関係性の健全さは増してるんだけど…でもそれでいて「蜂須賀兄ちゃんはあれで長曽祢兄ちゃんのこと評価してる」だし、蜂須賀はこのあとに修行に行くわけだし、本当に少ない燃料で巧いこと走らされてるとは思います、ええ本当に。

 あと、一つ怖いのはそうして働けなくなったときにはどうなってしまうんだろう、ってのがあるんですが…。でもそのへんはやっぱり「モノ」だから、本人も他の刀剣男士も、人間とは感覚が違うのかな…とも思ったり。

 まぁとにかく、ウチの蜂須賀の自主トレに熱が入るのは間違いないなと思いました。

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 …というのが、三通の手紙を読んでの感想で、長曽祢の極ならこうなるよな~という納得と、一方で蜂須賀のことも浦島のことももうどうでもよくなっちゃうのかな~という一抹のさみしさがあったんですが、いざ帰ってきた長曽祢の台詞を聞いたら、「何だよ~お前よ~(と肩を抱きながら叩きたい)」ってなりました…。
 相変わらず謙遜なんだか不遜なんだか分かんないけど、「虎徹の贋作」にされたことは偶然だったのかもしれないけど、それでも「虎徹の」贋作であるのなら「虎徹」にこだわってくれるのは何かうれしいというか、何でしょうねこの感情…。
 自らが「虎徹の贋作」であるために利用するものとして必要なんじゃなく、「これも何かの縁」みたいに感じて、互いのことを知って、それで必要な存在になっていくのなら、それが一番、私の中で理想の刀剣乱舞的関係でもあるんですが。

 長曽祢の言う「本物」も、蜂須賀の言う「贋作」も、ゲーム内の各台詞で口にしているときは、お互いに「本物=蜂須賀・浦島」、「贋作=長曽祢」という風に限定してはいなくて、含みつつも広い意味で言ってるんだと思ってるけど、長曽祢は「本物」のことを悪くは言わない、けど蜂須賀は贋作を蔑むことを言う…から、プレイヤーから煙たがられたりすることもあるんだろうけど、長曽祢が「(めったにない)いい贋作」だからそういう齟齬が生じるんであって、広く「贋作」を指すなら蜂須賀がああいう風に言うのはそりゃ真っ当なことだよと思うんですよね。
 長曽祢だって、自身の売りの一つである頑丈さを誇るときには「おっ、言うねぇ」って言い回しになるし(でも「贋作だから」とは言わなくなった…よね?)。
 それでも、そもそももっとこう真作に挑戦的な言い回しをするキャラにもできただろうに、そこはちゃんと「虎徹」に敬意を払ってくれてるのは、今になって余計にありがたさしかないです。

 基本的に「前の主の元へ行って過去を見つめ、今の主への忠誠を新たにする」というのが修行の主旨だとして、今剣の修行の成果が「あるじさまだけのまもりがたな」という結論だったことが初見で結構衝撃で、いやそんな「あるじさまだけの」とか言わなくていいんだよ、史実では存在していなかったとしても、義経がいくつか手にしていたであろう名もなき刀に込められた思いの集合が今剣だよ、だからやっぱり今剣は「義経の刀」だよ…という思いがあったので、在り方が似ているところのある長曽祢もこういうこと言い出したらどうしようってちょっと思ってたんですが、過去を踏まえた上でこれからのことを語ってくれて、安心しました。
 要するに「開き直り」ではあるし、蜂須賀にしてみれば「はぁ!?」と言いたくもなるだろうし、一番割りを食ってるのは清麿だろうとは思いますけどね…。

 いや本当、分かってたけど、長曽祢はめちゃめちゃ近藤さんのことが好きで、その点で清麿には「近藤の目に適う働きができる刀として鍛えてくれて感謝する」みたいに思ってそうだな~と。いやそもそも虎徹に対しても、「その名と、贋作が多かったおかげで、近藤と出会えた」点を一番に感謝してそうな気もするんですけどね。
 でもそれでこそ、刀剣乱舞における長曽祢虎徹なんでしょうね。